
| ドライバーと友達になるな──エンツォ・フェラーリの言葉 |
「ドライバーはいずれ死んでしまう」
「ドライバーとは友達になるな。遅かれ早かれ彼らは君のもとを去る。チームを移籍するか、あるいは死んでしまうからだ」
これはピエロ・フェラーリの父(エンツォ・フェラーリ)が彼に何度も言った言葉であったそうですが、ピエロ・フェラーリはその言葉を信じなかったといい、なぜなら、多くのドライバーは単なる同僚ではなく、一生の友人となったから。
そしてその中の一人がニキ・ラウダであったと言われます。
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ニキ・ラウダとの出会い
1974年、クレイ・レガツォーニの推薦によって若きオーストリア人ニキ・ラウダがマラネロにやって来ることに。
当初フェラーリはマクラーレンのピーター・レブソンと契約寸前であったものの、モナコGPでのニキ・ラウダの走りを見たエンツォ・フェラーリが即座に「賭けてみる」という決断を下したからだそうですが、それはデータやシミュレーションに基づくものではなく、直感と経験によるもので、そしてその直感は見事に当たり、ニキ・ラウダはフェラーリに栄光をもたらすこととなったわけですね。
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「人間コンピューター」と呼ばれた才能
ニキ・ラウダは到着早々、驚異的な開発能力を発揮しており(このあたりは映画「ラッシュ/プライドと友情」でも描かれている)当時のマシン「312 B3」のアンダーステア特性を克服し、自らのドライビングスタイルに合うよう改良を重ねてゆきます。※レースで勝つためには、速いマシンを手に入れるだけではなく、速いマシンを「作ってゆく」能力が不可欠である
彼はラップごとの挙動を細部まで記憶し、どのコーナーでギアを誤ったか、どこに広告看板があったかまで正確に語れたと記録されており、まさに「人間コンピューター」と呼ぶにふさわしい存在であったようですね。
しかし、ヘルメットを脱げば彼は陽気で冗談好きな青年に戻り、モデナのレストラン「フィーニ」で仲間と食事を楽しむ一人の好人物、そしてピエロ・フェラーリの友人でもあったという一面も。
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1975年、初の世界王者へ
そしてニキ・ラウダがフェラーリではじめてのチャンピオンシップを獲得したのは1975年9月7日のモンツァ。
ここではクレイ・レガツォーニが優勝し、ニキ・ラウダは3位でフィニッシュするのですが、ここで彼の初のワールドチャンピオンが確定し、ピエロ・フェラーリいわく「表彰式後に交わした抱擁は、今でも忘れられない瞬間」。
悲劇の事故と奇跡の復活
しかし1976年8月1日のニュルブルクリンクにてニキ・ラウダは大クラッシュを喫し、重度の火傷を負ってしまいます。
それでも彼はわずか数週間後にテスト走行へ復帰することとなり、(火傷痕を刺激しないよう製作された)特製ヘルメットをかぶって痛みに耐えながらも通常通りのラップタイムを刻んだそうですが、やはりクラッシュはトラウマとなってニキ・ラウダの心を蝕んでおり、ピエロ・フェラーリに対してはこう語ったことも。
「ピエロ、前とは違うんだ。最初にスピンした時、心臓が強く脈打つのを感じた。そんなこと、今までなかったのに。」
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突然の別れ、そして2度目の栄光
このトラウマは1976年のF1世界選手権最終戦、日本の富士スピードウェイで開催された、そして豪雨に見舞われたレースでのリタイアにも繋がることとなり、これがエンツォ・フェラーリを(チャンピオンシップをみすみす逃したと捉えられ)激怒させたことからニキ・ラウダとエンツォ・フェラーリとの間に確執が生じてしまい、1977年には信頼していたメカニックが解雇されたことでニキ・ラウダは「フェラーリを去る」という決断を行います。
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なお、このメカニック解雇に関する一件を見るに、ニキ・ラウダは「人間コンピュータ」と呼ばれる一方、非常に情に厚い人物であったこともわかりますね。
かくしてニキ・ラウダは1977年8月、契約延長や金銭要求を一切せず、あと2戦を残した状態にて突然フェラーリを去ると決断することになりますが、ニキ・ラウダは残り2戦も気を抜かず、結果的に1977年シーズンにおいて、自身そしてフェラーリにとって見事2度目のタイトルを獲得することに。
つまり、いかにエンツォ・フェラーリと対立しようとも最後までプロフェショナルとしての姿勢を貫いたのがニキ・ラウダという人物であり、そこが今なお多くの人々を魅了してやまない「一人の人物としての」側面なのかもしれません(「信」「義」両方を併せ持っていた人物であったのだと思われる)。
「ニキ・ラウダは「人間コンピューター」と呼ばれる精密さを持ちながらも、私にとっては何よりも”友人ニキ”でした。
ドライバーとは友達になるなと父に言われましたが、もし従っていたら、このかけがえのない友情を持つことはできなかったでしょう。」
ピエロ・フェラーリ
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参照:Ferrari