
| 「ロータス」は創業者であるコーリン・チャップマンの画期的な思想によってその名を知られるように |
とくに「軽量」「ハンドリング」はそのブランドの”核”である
自動車の世界において「ロータス」という名を聞いたとき、多くの人が軽量スポーツカーや伝説的なF1チーム(あるいはJPSカラー)を思い浮かべるかもしれません。
しかし、その歴史は単一の軌跡ではなく、創業者の天才的な哲学、波乱に満ちた経営の変遷、そして時代の要請に応えるための大胆な変革によって紡がれてきたものであり、ここではそのロータス・カーズの歴史を、その核心をなす哲学と主要な転換点に焦点を当てて述べてみたいと思います。
創業者と哲学の時代:コーリン・チャップマンの遺産(1948-1982)
ロータス・カーズの歴史は、創業者であるコーリン・チャップマン(アンソニー・コーリン・ブルース・チャップマン)の個人的な情熱と探求心から始まります。
ロンドン大学で構造技術を学んでいた彼は、1947年に売れ残っていた1930年製の「オースチン・セブン」を買い取って改造しレースに出場することでキャリアをスタートさせますが、この作業は、彼のガールフレンド(後の妻)であるヘイゼル・ウィリアムズの家の裏庭にあるガレージで行われたため、文字通りの「バックヤードビルダー」としてのスタートであったわけですね。
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「ロータス」という名称が初めて車名として使われたのは、1949年に製作された2台目の車、「マーク2」からとされています。
社名の由来については諸説あり、チャップマン自身がその由来を語らなかったため真実は謎に包まれていますが、ロータスエンブレムが、チャップマンのイニシャルである「Anthony Colin Bruce Chapman(=ACBC)」をかたどったものであることは広く知られている”事実”です。
「ロータス」の社名の由来についての諸説
事実がわからないといえど、「ロータス」の社名についてはいくつかの説があり、代表的なものは以下の通り。
- 創業者コーリン・チャップマンの恋人だった女性にちなんだ、という説(ただし妻以外の名を用いるとは考えにくい)
- 当時コーリン・チャップマンは仏教に傾倒しており、仏教、そしてインドやエジプトで神聖視される「蓮(Lotus flower)」に由来する、という説
- 創業当時、資金難で「負債(load us=ロータス)」と仲間内で自虐的に呼んでいたのがそのまま社名になった、という説
ロータスのエンブレムの由来
当初のロータスのエンブレムは、黄色と緑を基調にした楕円形デザインを持っており、上部に「ACBC」の文字が重なって配置されていますが、これは創業者 Anthony Colin Bruce Chapman の頭文字を取ったもの。
イエロー部分は「活力」や「エネルギー」を、グリーン部分はは「イギリスの伝統的なレーシングカラー(ブリティッシュ・レーシング・グリーン)」を意味する、と解釈されています。
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その後1952年1月1日、チャップマンは正式に「ロータス・エンジニアリング」を設立し、ビジネスとしての自動車製造を本格的に開始。
この頃に生まれた初の量産モデル「マーク6」は、当時無名だったロータスに対し、フォードがエンジンの販売を拒否したため、チャップマンがディーラーを回って部品をかき集めて組み上げるという苦労を伴ったとされ、こうした創業初期の限られたリソースの中での経験が、後にロータスの核となる「あるものを組み合わせて最良の製品を作る」という思想の土壌を育んだと見られているようですね。
1.1. 「軽さが正義」の哲学と初期の傑作群
コーリン・チャップマンは、航空機エンジニアとしての経験を通じて培った構造力学とアルミニウムに関する深い知識から、「軽量化による性能の向上」という揺るぎない信念を確立することになりますが、この哲学は、彼の「馬力を上げれば直線は速くなるが、軽量化すればすべての物理法則に対して有利になる」という彼の言葉に凝縮されています。
これは、資金力に乏しい小規模メーカーが、潤沢なリソースを持つ大手メーカーに対抗するための独自の生存戦略であり、ロータスのユニークなブランド価値を築き上げる上で不可欠な要素となり、この哲学はロータスの初期の傑作群に明確に反映されています。
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- ロータス7(セブン): 「実用本位の」スポーツカーとして、完成車だけでなくキットカーとしても販売され、低コストで圧倒的な性能を実現。ロータス・カーズが事業拡大に伴い、1973年にライセンスをケータハムに売却した後も、その精神は受け継がれている
- タイプ14 エリート: 縁起の悪い13を避けて命名されたこのモデルは、ロータスで初めてFRP(繊維強化プラスチック)製のモノコックボディを採用したクルマであり、これによって車体剛性を高めながらも大幅な軽量化を達成。自動車構造における革新的な手法を確立する
- ロータス・エラン: 1962年に登場したこのモデルは、鋼板製のX型バックボーンフレームにFRP製ボディを組み合わせた革新的な構造を採用 。この軽量な骨格に、ロータスオリジナルのツインカムヘッドを搭載したエンジンを組み合わせることで軽快なハンドリングを実現し、ロータスを世界的な量産メーカーへと押し上げる大ヒット作となる
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ロータスの「命名」について
ロータスは伝統的にその製品に対して「通し番号」を与える傾向にあり、それはロータスの名を関した最初の車である「マーク2」、そして上で示した「タイプ14」を見てもわかるかと思います。
ただし「11」番目のクルマを作ったときに例外が生じ、「Type 11(タイプ・イレブン)」と表記すると、フォントによっては「タイプ・ツー」と読み取られてしまう可能性があり、ここで「Type Eleven」といった具合に”文字をアルファベットで”記載することに。
そしてここで「車名の最初に”E”を用いるという新しい法則」が生まれ、それ以降のクルマも「通し番号」をコードネームとして保有するものの、時折「名前」を持つクルマが誕生し、「エラン」「エスプリ」、そして現代の「エレトレ」「エミーラ」等へと”Eの法則”が受け継がれているわけですね。※この通し番号は自動車だけではなく、英国オリンピックチーム向けに開発された自転車など、自動車以外にも採用されている
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1.2. F1における革命と黄金時代
「軽さが正義」というロータスのDNAは、モータースポーツの世界で花開くこととなり、1958年にF1世界選手権に参戦した「チーム・ロータス」は、チャップマンの独創的な発想と技術力によってF1の歴史そのものを塗り替える革命児となり、ロータスがF1に与えた影響は以下のように多岐にわたります。
- モノコック構造: 1962年の「ロータス25」ではF1で初めてバスタブ型のモノコック構造を導入。この技術は、航空機から着想を得たもので、従来のパイプフレーム構造を過去のものとし、安全性と剛性を飛躍的に向上させる
- ストレスド・メンバー(荷重部材): 1967年の「ロータス43」では、エンジンを車体の強度部材として直接シャーシに固定するという画期的な設計を採用 。これにより、車体構造のさらなる軽量化と高剛性化を実現し、F1マシンの設計思想に大きな影響を与える※ロータスは素材や構造を軽量化する以外にも、「1つのパーツに2つ以上の役割をもたせることで」車体に必要な部品を削ることに成功していた
- スポンサーカラー: F1では車体の塗装は国別のナショナルカラーが慣例であったものの、ロータスはタバコメーカー「ゴールドリーフ」や「JPS」のスポンサーカラーを初めて採用し、F1を「走る広告塔」へと変貌させた(これは狙ったものというよりも、”貧乏チーム”ならではの副次的効果であったのかもしれない)
- ウェッジシェイプとグラウンド・エフェクト: 1970年の「ロータス72」は、ラジエーターをサイドに配置し、前方部が尖ったウェッジシェイプを採用することで、車体全体でダウンフォースを生み出すという新しい空力思想を確立 。さらに、1977年の「ロータス78」では、車体下面を翼断面形状にして負圧を発生させる「グラウンド・エフェクト・カー」を開発し、他チームを圧倒する速さを見せつける
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F1での華々しい成功は、ジム・クラークやロニー・ピーターソンといった伝説的なドライバーの活躍と相まって、(ロータスが製造する)市販車への注目度を劇的に高めることに成功しましたが、特に「ヨーロッパ」はF1のイメージを巧みに活用し、世界中で大ヒットを記録しています。
この例のように、F1での技術的・商業的成功がロードカーの販売に貢献するという「理想的な相乗効果」こそが、チャップマン時代のロータス最大の強みであったと言え、ここはフェラーリと通じるところがあるのかもしれません。
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コーリン・チャップマンの「商才」
コーリン・チャップマンは(ロンドン大学で構造エンジニアリングを学んだことからもわかるよう)感覚的なクルマ作りをする人物ではなく、体系的な知識とともに論理的なクルマづくりをする人物であるということがわかったかと思いますが、もう一つの特徴的な側面がその「商才」。
上述の「スポンサーカラー」、「F1での勝利を市販車の成功に結びつけた」ことからも推察できるとおり商業的センスにも長けており、そこで彼がはじめたキャンペーンが「Handling by Lotus(ハンドリング・バイ・ロータス)」。
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これは当時のロータスが積極的に展開したサスペンション・シャシー開発のコンサルティング事業を示す言葉であり、コーリン・チャップマンが確立した”「軽量ボディ」「優れたシャシー設計」による操縦安定性=ハンドリング”における高い評価を他のメーカー向けに販売するというもの。※つまり、「ハンドリング・バイ・ロータス」とは、ロータスがはじめたマーケティング上の呼称であった
実際のところ、いすず、オペルがロータスと車両を共同にて開発するなど一定の成功を収め、とくに「ピアッツァ」「ジェミニ」の影響もあって日本ではよく知られた呼称であると思います(モータースポーツファン以外にも「ロータス」の名を知らしめたという意味では、この「ハンドリング・バイ・ロータス」の意義が非常に大きい)。
経営変遷とブランドの模索(1982-2017)
1982年、創業者であるチャップマンがわずか54歳で急逝することとなりますが、その死因は「心臓発作」。
以前から不調を訴えていたわけではなく、文字通りの「急逝」であったといい、よってなんら準備ができていないままにこの世を去ったため、ここでロータスは最大の危機とを迎えます。※当時ロータスはデロリアンDMC-12の開発に関わっており、ジョン・ザッカリー・デロリアンが詐欺や資金流用疑惑で捜査対象となっていたこと、デロリアンと深く関わっていたコーリン・チャップマンも捜査対象として挙げられていたことから、心労がたたったのかもしれない
ロータスそのものがコーリン・チャップマンというカリスマ的なリーダーに依存しており、そしてカリスマに依存する企業の例に漏れず経営が急速に悪化し、ロータスは厳しい試練に直面することとなってしまいます。
コーリン・チャップマンの残した偉業
ここでいったん、コーリン・チャップマンの残した偉業を時系列にまとめ、かつわかりやすく「年表」にしてみると以下の通り。
これを見るといかにロータスが革新的な自動車メーカーであったかを理解することができ、「もしコーリン・チャップマンが存命であれば、さらに多くの発明を残していたであろう」ことも推測できます。
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そしてこの「効率」「軽量性」「バランス」「空力」を重視するという考え方は、”ハイパワーなエンジンを積んで直線でタイムを稼ぐ”という考え方を持ち、エアロダイナミクスやブレーキ性能にはほとんど注意を払わなかったエンツォ・フェラーリとは対極にあるとも考えられます。
年 | トピック | 初出モデル | ポイント | 影響 |
1957 | ガラス繊維フル・モノコック(市販車) | ロータス・エリート Type14 | ボディ/シャシー一体化で超軽量 | 量産車での先進構造を提示 |
1957–58 | チャップマン・ストラット(後輪) | ロータス 12 | 駆動シャフトを懸架要素に兼用 | 部品点数削減と軽量化 |
1962 | F1初のフル・ストレスド・モノコック | ロータス 25 | 剛性・安全性・空力の飛躍 | 以後のF1設計の潮流を転換 |
1967 | エンジンを荷重部材に | ロータス 49(+ Cosworth DFV) | パワーユニットを構造材化 | 近代F1の基本パッケージに |
1968 | タービン+4WD/ウエッジ原型 | ロータス 56(Indy) | 低ドラッグ化と新レイアウト | 72のウエッジ思想へ継承 |
1970 | ウエッジ+サイドラジエター | ロータス 72 | 空力/重量配分の最適化 | 長期にわたる競争力を獲得 |
1977–78 | グラウンド・エフェクト | ロータス 78/79 | ベンチュリ効果で大ダウンフォース | 1978年タイトル、新時代到来 |
1981 | ツインシャシー(T88) | ロータス 88 | 空力荷重と機械的荷重の分離 | 斬新すぎて出走認可得られず |
1983 | アクティブ・サスペンションの実戦投入 | ロータス 92 | 電油制御で車高/姿勢を最適化 | 後年のハイテクF1の端緒 |
1962– | バックボーン・シャシー(市販車) | エラン → ヨーロッパ等 | スチール中骨+FRPボディ | 軽量・高剛性のロータス流定番 |
※タイプ49の「荷重部材(ストレスド・メンバー)については、他コンストラクターの先例があるものの、実用化に成功したのはロータスが初だと考えられている
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3.1. 年表でたどるブレイクスルー
こちらは「年表版」。
車体の設計技術のみならず、エアロダイナミクス面、そして「ガスタービン」といったパワートレーン、ハイパワー時代に対応した「4WDのF1マシン」、「アクティブサスペンション」といったハイテク装備にまで手を出しており、「自動車業界におけるブレゲ」といっても過言ではないかもしれませんね。
1950年代:軽さとシンプルさの出発点
- 1952–57:スペースフレーム(ロータス 6/7)
極細パイプによる軽量骨格で、最小限の材料で最大の剛性を狙うロータス流を確立 - 1957:エリート Type14のガラス繊維フル・モノコック
ボディとシャシーを一体化したFRPモノコック量産車。ロードカーでいち早く軽さと空力を融合 - 1957–58:チャップマン・ストラット(ロータス 12)
後輪駆動シャフトを懸架ジオメトリの一部として兼用し、部品点数削減と軽量化を実現
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1960年代前半:F1を変えたモノコック
- 1962:ロータス 25(F1)
F1初のフル・ストレスド・モノコック。ドライバーの姿勢を寝かせ、正面投影面積を削減。剛性/安全性/空力が飛躍し、以後のF1設計のひとつの基準に - 1964–65:ロータス 33
25の改良版。13インチタイヤ対応などでパッケージを洗練
1960年代後半:パワーユニットも“構造材”に
- 1967:ロータス 49 + コスワース DFV
エンジンを荷重部材としてモノコック後端にボルト留めし、ギアボックス/サスを直接支持。重量/剛性/整備性の面で革命的。以後のF1マシンがこぞって踏襲 - 1968:ロータス 56(Indy)
ガスタービン+4WD、そしてウエッジシェイプの原型。空力とレイアウト革新が、のちのF1へ示唆を与える - 1969:ロータス 63(F1 4WD)
実戦成績は乏しいが、ハイパワー時代を見据えたトラクション向上の実験車
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1970年代:空力の時代を切り開く
- 1970:Lotus 72(ウエッジ+サイドラジエター)
ラジエターをサイドポッドへ移し、先鋭的なウエッジシェイプに最適化。インボードブレーキやトーションバー採用等、総合的に“数年先を行く”パッケージ - 1977–78:Lotus 78/79(グラウンド・エフェクト)
サイドポッド下面のベンチュリ形状とスカートで気流を封じ、強烈なダウンフォースを獲得。1978年タイトルを制し、F1の新時代を築く
1980年代初頭:規則の縁を攻める“最後の驚き”
- 1981:Lotus 88(ツインシャシー)
外側ボディに空力荷重、内側シャシーに機械荷重を受け持たせる二重構造で、規則上の“可動空力”と解釈され出走認可を得られず。とはいえ発想の射程は現在のエアロ・プラットフォーム制御に通じる - 1982–83:アクティブ・サスペンションの着想と実戦
電油制御で車高/姿勢を常に最適化するコンセプトが始動。Lotus 92(1983)で実戦投入され、のちの“ハイテクF1”へとつながる
市販車へのトランスファー:バックボーン・シャシー
- エラン(1962–):スチール製バックボーン(中骨)フレームにFRPボディをボルト留め。軽量・高剛性でロードカーの新機軸に。
- ヨーロッパ(1966–):ミドシップ化に合わせバックボーンをさらに発展。主要コンポーネントを中骨に集約し、612kg級の軽さを実現(グレードによる)。
- 以降:エクラ / エクセル、エスプリなど、ロータス市販車の設計思想として継承。
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技術思想の核心(要点箇条書き)
- “二役一挙”:1つの部品に複数の役割を持たせる(例:駆動シャフトをサス要素に/エンジンをシャシー構造に)
- “軽さこそ性能”:軽量化は加速/制動 / 旋回 / 摩耗 / 燃費の全方位メリットに直結
- “空力×メカの総合最適”:72→78 / 79に至るまで、レイアウト・冷却・懸架を空力から逆算して再設計
- “規則の解釈力”:ロータス88やアクティブサスなど、ルールの“余白”を読み解く力が独創を後押し
GM傘下でのロータス迷走:M100エラン
コーリン・チャップマンの死後、経営難に陥ったロータスは、1986年に米国の自動車大手ゼネラル・モーターズ(GM)に買収されますが、GM傘下で開発された2代目「エラン」(M100)は、創業者チャップマンの哲学からの大きな逸脱を象徴するモデルとして歴史に名を残しています。
このモデルは、GMの提携先であったいすゞ製のエンジン、そしてロータス史上初の前輪駆動(FF)レイアウトを採用するというクルマで、約4000万ドルという当時としては莫大な開発費が投じられた意欲作ではあったものの、ロータスの伝統的な後輪駆動(FR/MR)レイアウトとは異なる駆動方式がブランドのコアなファンから受け入れられず、商業的には成功しなかった存在です(ただしスタイリングは非常に素晴らしい)。
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この事例は、大手自動車メーカーの傘下に入った際、部品の共通化や市場トレンドへの追従が優先され、創業者が築いたブランドの核となる哲学が揺らぐ可能性を物語っていますが、クライスラー傘下にあったランボルギーニ、フォード傘下にあったジャガーとアストンマーティンも同様の”犠牲者”といえるのかもしれません。
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ランボルギーニはクライスラー傘下時に様々な試作車を作っていた。ダッジ・デイトナ(FF)にランボルギーニ製V8を押し込んで4WD化し発売する計画があったもよう
| ランボルギーニはこれまでに7回も親会社が変わり、その都度運命にも変化が生じている | その中でもクライスラー時代には「他にない」動きがあったと言っていい さて、ランボルギーニはフェルッチオ・ランボ ...
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プロトン傘下での生存と復活:エリーゼの奇跡
GMがロータスの経営から撤退した後、1993年にロータスを買い取ったのがイタリアの実業家、ロマーノ・アルティオリ。
この買収が、ロータス復活の”大きな転機”となるのですが、ロマーノ・アルティオリはGMとは異なり、「ロータスの名前だけで一儲けしよう」というのではなく、ロータスの持つ軽量化技術とブランド力を尊重する経営戦略を採用したことが最大の特徴です。
同氏は同時期にブガッティの商標権を得て「アウトモビリ・ブガッティ」を設立し、そこでは「世界初のハイパーカー」とも呼ばれるEB110を発売するのですが、このEB110も「ホースシューグリルを備え、ブガッティ創業者であるエットーレ・ブガッティの生誕110周年に”EB110”という名称を冠した」ブガッティへの愛あるクルマ。
Image:Bugatti
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近代ブガッティ各モデルの最高速はどれくらい?時速489kmから300kmまで、シロン、ディーヴォ、チェントディエチ、EB110など16モデルを順番に並べてみた
| シロン世代のブガッティであってもけっこう最高速には違いがある | ここ数年のブガッティはモデルごとに明確に性格を分け、コレクションに値するラインアップを作り上げている 近代のブガッティは比類なきパ ...
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さらには「他と比較されるようであれば、それはブガッティではない」というエットーレ・ブガッティの信念を体現するかのように「4WD」「V12クワッドターボ」という破格のスペックを誇っており、やはり「ブガッティを理解し尽くした熱血漢にしか作れない」一台でもあったわけですね。
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「他と比べられるようであれば、それはブガッティではない」。創業者であるエットーレ・ブガッティの信念、卓越性の追求と経営破綻、そして再生(1)
Image:Bugatti | 序論:ブガッティの不朽の遺産 | ブガッティ創業者の魂はいまも製品に根付いている ブガッティは、自動車の歴史において最も崇拝されるブランドの一つとして、比類のない豪華さ ...
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そういった人物が作ったのが「エリーゼ」であり、となればそのクルマは「紛うことなきロータス」であることは間違いなく(その車名は孫娘の名を冠したものであるが、ちゃんと「E」ではじまっている)、戦略的転換の象徴として1995年のフランクフルトモーターショーでデビューを飾ります。
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ロータス・エリーゼ最後の一台が「エリーゼ命名のきっかけ」となった女性のもとに納車!エリーゼ発表当時は2歳、今ではこんな美人さんに成長していた
| 自分の名を持つクルマが愛され、そして世界中で走っているという気持ちを理解できるのは彼女のみだろう | エリーザ・アルティオーリさんは4歳の頃から自分のエリーゼを持っていた さて、ロータスはエリーゼ ...
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そしてこのエリーゼは翌1996年に発売されることとなるのですが、アルミ製の押出材を接着剤で組み立てるという画期的な手法を導入し、チャップマンの「軽さが正義」という哲学、そして常に革新を求める姿勢を徹底して追求したライトウエイトスポーツカー(登場初期は680kgという、目を疑うような軽量なクルマであった)。
ただ、残念なことに当時世界を襲った景気後退(リセッション)によってまずはアウトモビリ・ブガッティの経営が揺らぎ、その損失を補う形でロータスがマレーシアのプロトンへと(1996年に)売却されています。
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ロータス・エリーゼは29年前の今日にプロトタイプが完成していた。前例がない技術に挑戦し、革新と失敗の限界に挑戦したエンジニアたちの物語【動画】
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ただしこのプロトンもロマーノ・アルティオリ同様に「ロータスのDNA」をしっかりと理解しており、実際には自社の「サトリアGTi 」に対し”ハンドリング・バイ・ロータス”仕様を追加し発売したことも(1998年)。
このプロトン傘下ではエリーゼ(S2、S3 )、エキシージ(2000年)、エヴォーラ(2008年)といったモデルが発売され、ロータスを再びメジャーブランドへと押し上げることに成功していますが、やはり契機となったのはエリーゼの成功。
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そしてエリーゼはロータスが経営危機を乗り越え、ブランドのアイデンティティを再確立する上で不可欠な存在であり、エスプリに代わるロータスの主力モデルとなって、生産台数は2万台を超え、ロータス史上最も人気のある車種へと成長しています。
この奇跡的な復活は、ブランドの核となる哲学を守りつつ、外部の優れた技術(トヨタ製エンジンなど)を巧みに活用するという、ロータスが創業当初から貫いてきたニッチメーカーとしての巧みな生存戦略の再証明だと捉えることも可能です。
新時代のロータス:ジーリーによる変革と電動化(2017-現在)
2017年、ロータスは再び大きな転換点を迎えます。
この年、中国の浙江吉利控股集団(ジーリー)がプロトンから株式の51%を取得しロータスの経営権を掌握することとなっていますが、ジーリーは、スウェーデンのボルボ・カーズなど、複数の自動車ブランドを傘下に収めてきた実績を持ち、その経営手腕が高く評価されている自動車メーカーのひとつ(創業者の季書福氏はメルセデス・ベンツの最大株主である)。
6.1. ジーリーによる戦略的買収と「Vision80」
ジーリーはロータスの買収を単なる投資ではなく、ブランドの抜本的な再建とグローバル市場での成長を目指す戦略的な一歩と位置づけており、ジーリーの支援のもと、ロータスは「Vision80」という大胆な戦略計画を発表するのですが、これは「創業80周年を迎える2028年までに、内燃機関搭載車の生産を終了し、純粋な電気自動車(EV)メーカーへ転換する」という野心的かつ大胆な計画です。
この計画には、263億元もの巨額投資が含まれ、年産目標は従来の少量生産から大きく飛躍した15万台と設定され、Vision80はロータスがこれまでのニッチな「少量スポーツカーメーカー」から、より広範な顧客層をターゲットとする「ライフスタイルブランド」へと変貌を遂げることを意味しており、この転換は、チャップマン時代から続いたビジネスモデルからの完全な脱却であり、ブランドの歴史上最も急進的な変化であると捉えられています。※当初は旧経営陣が残されていたが、順次ジーリーの息がかかった人物へと上層部が置き換えられた
6.2. 内燃機関の集大成と電動化への移行
「Vision80」戦略の下、ロータスは伝統への最後の敬意を払うモデルとして、そして新しい時代の幕開けを告げるモデル群を発表。
これらの新モデルは、チャップマンが追求した純粋な物理的軽量化から、バッテリーやモーター、ソフトウェアといった新しい技術による高性能化へと、”ロータスの哲学が進化している”ことを明確に示しています。
ジーリーは、ロータスを「インテリジェント・ラグジュアリー・モビリティ」ブランドへと再定義しようとしており 、その大胆な戦略は、ブランドの過去の遺産と未来の生存戦略との間で、どのようなバランスを取るのかという根本的な問いを投げかけているかのようですね。
- エミーラ(Emira): エリーゼ、エキシージ、エヴォーラの3モデルを統合した後継車として2021年に発表され、「ロータス史上、最高で最後」の内燃機関搭載モデルと銘打たれており 、ポルシェ・ケイマンをベンチマークとして実用性を高めることにより、世界市場でのプレゼンス向上を目指して市場へと投入されている
- エヴァイヤ(Evija): ロータス初のフル電動ハイパーカーで、2000馬力を超える圧倒的なパフォーマンスを誇り、ロータスが電気自動車時代においても高性能を追求する姿勢を示している
- エレトレ(Eletre): ロータス初の電動SUVであり、ブランドが「ライフスタイルブランド」へと変貌するための象徴的なモデル
さらにその後、ロータスはハイパーGT「エメヤ(Emeya)」を発売し、いっそう「電動色」「ライフスタイル色」を強めることとなるのですが、(中国市場はさておいて)プレミアムEV市場が想定したほどの成長を見せないこと、スポーツカー市場での「内燃機関への回帰」志向が高まっていること、加えてトランプ関税などの複数の要因によって方向修正を迫られており、その一部として「内燃機関の継続」が示されている、とういうのが現在の状況です。
結論:時代を超越するロータスの精神と今後の展望
ロータスの歴史は、創業者の天才性、技術革新への飽くなき探求心、そして幾度もの経営危機を乗り越えてきた不屈の精神によって紡がれてきたのだと考えられ、それは単に「軽さ」という物理的な哲学だけでなく、常に時代を先取りし、自動車工学の限界に挑戦する「レーシングスピリット」という、より普遍的なDNAとして継承されてきたと捉えてよいかと思います。
その一方、ジーリーによる大胆な経営戦略は、ロータスがニッチなブランドとして(ガソリンエンジンの終焉とともに)消滅するリスクを回避し、持続可能な未来を築くための必然的な選択であったと結論付けられますが、ロータスの今後の成功は、チャップマンの「ライトウェイト至上主義」という精神を、バッテリーやモーター、ソフトウェアといった新しい技術でいかに再解釈し、顧客に訴えかけることができるかにかかっているといっても過言ではないかもしれません。
その意味において、ロータスは、過去の栄光を背負いながら、今、最もエキサイティングな変革の時代を迎えているということになりそうですね。
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