ぼくはMTを選ぶことが今まで多かったのですが、それは「MT好き」という理由ではなく、単に「トルコンATが嫌い」という理由で、トルコンATではないトランスミッショ ンつまりMTを選んでいた、というのが実情です。
トルコンAT独特の滑り、それに起因するダイレクト感の欠如、そして重量増加がぼくにとって許容しにくい、と考えているわけですね。
ただしレンジローバー・イヴォークのように車の性質とマッチしているものであればウエルカムで、イヴォークの場合はオフローダーなので急激なトルクの変化を抑えるためにデュアルクラッチではなくトルコンATを採用しているという側面があります。
なのでガヤルドも100万円のオプション代金を払ってEギアを選択しているのですが、クラッチが無くなることでシートポジションの自由度や、街中で走るとき、もちろん峠道などでも、クラッチ操作に気を使わずステアリングとアクセル、ブレーキに集中して運転することができ、これは正しい選択だったなあ、と今でも運転するたびに思います。
ただしぼくが重視するのはクラッチを踏まなくて良い、という安楽さではなく、「クラッチに煩わされることなく運転に集中できる環境づくり」であり、「自分でギアを選ぶ」という行為は非常に重要だと考えています。
車が勝手に走るギアを選ぶのと、自分で車を走らせるギアを選ぶのとでは、同じ「運転」という行為においてもその意味が全く異なるとぼくは考えていますし、そのためにガヤルドは「オート」モードがあるものの、今まで一度もそれを使用したことはなく、ぼくは必ず自分でパドルを引いてギアを選んでいます。
ボクスターも同様で、PDKによって今まで気を使っていた部分が無くなり、よりドライビングを楽しむことができるようになったと考えていますし、スポーツクロノのようにMTよりもPDKのほうがマッチングが高い装備もあり、それは現代においてスピードを出すことが悪だと考えられるような状況下においても、より「スポーツ」感を楽しむために有用なのではないか、と思うのですね。
ぼくはしばらくの間、電子制御によってアクセルレスポンスやステアリングフィール、ダンパーの制御を行うのはいかがなものか、と考えていた時期がありました。
つまり、低い速度域においても「ス ポーツ感」を味わえるよう、足回りやステアリングを固めたり、シフトチェンジのタイミングを変更したりブリッピングを行う、ということについて、です。
それらはなんだか「偽り」のような 気もして、自動車を走らせる、という行為に背いているんじゃないか、と考えていたわけですね。
サーキットを走るときには有効かもしれませんが、街中では不要に思えますし、スイッチ1つでその印象を変えるということは、逆に「本来の姿」もどんなものなのか、がわからない、ということになります(限界がスイッチ1つで変化することになる)。
ですが、フェラーリ458イタリア を運転した時、いろいろとモードを変更してみて、ふとぼくはの考えは変わりました。
これらのモードは、サーキットを走るときだけじゃなくて、街中を走るときにこそ必要なんじゃないか、と。
フェラーリのようにエキゾチックな 車は、その雰囲気を楽しむことも重要なわけで、「オレはいま、フェラーリを運転している!」という感覚が重要なわけですね。
ですが、道路事情によっては楽しむどころか「苦行」になってしまうことが多々あります。
また、法律や風潮を考えても、性能を引き出して楽しむことはそれらに背くことにもなるわけですね。
しかし458イタリアでは、街中で走っている時にそのような「苦行」から開放してくれ、しかもモードを変更すれば気分を盛り上げる(ブリッピングなど)アクション があり、いかなる道路状況においても「楽しめる」ようにできている、と感じたのです。
自動車を取り巻く環境はどんどん変 化していて、しかし車はハイパフォーマンス化する一方で、それはなんとなく矛盾しています。
それらの矛盾を取り払い、純粋に車の性能や雰囲気を楽しめる、メーカーの意図した感情をドライバーに喚起させる、それが件の電子制御なのでは、と思ったりしたわけです。
一部の人がサーキットに車を持ち込んで限界を引き上げるためのデバイスではなく、一般のひとが一般の道路を走っても楽しめるデバイスなんじゃないか、と考えるようになったのですね。
その意味では、より負担少なく車を 走らせることができるロボットクラッチやツインクラッチはいまやぼくにとって「必須」であり、各種電子制御も車を楽しむためには「大いに有用」だと考えているわけです。
以前は「電子デバイスはどちらかというと敬遠、MTでないと」と考えていたわけですが、環境や自動車本体の進化によって、それらが一気に覆されてしまった、ということです。
本投稿においては「intensive911」「みんカラ」と記事を共有しています。