| ポルシェがヒトラーによって提供された豊富な資金によってその開発のコマを大きく進めたことは間違いない |
ただしポルシェ創業者は「小型で効率の良いクルマ」をただ普及させたいがための人だった
さて、ジェレミー・クラークソンはポルシェ911を「ナチのクルマ」と呼んだことがありますが、ポルシェとヒトラーとは実際に浅からぬ関係にあり、今回それに焦点を当てた動画が公開されています。
そこでこの動画の内容をかいつまんで説明してみようと思いますが、まずポルシェ創業者、フェルディナント・ポルシェは18歳のときに実家を離れてウィーンにある電気設備会社であるベーラ・エッガーへと就職します(現在のブラウン)。※フェルディナント・ポルシェは幼少の頃から電気に関して強い関心を抱いており、10代にして街ではじめて自宅に電気を灯したとされる
ポルシェ創業者は1899年に電気自動車を作っていた
フェルディナント・ポルシェはベーラ・エッガーにて類まれなる才能を開花させ次々と画期的な製品を考案することでまたたく間に出世することとなりますが、1899年には電気自動車「エッガー・ローナーC.2フェートン(通称ポルシェP1)」を発表しており、1900年にはインホイールモーターを開発することに。
なお、当時は「電気自動車の可能性」が高く評価されていた時代でもあったようで、同じ1900年にはロールス・ロイスの共同設立者、チャールズ・スチュワート・ロールスが「電気自動車 は完璧にノイズレスでクリーンである。匂いも振動もない。固定された充電ステーションが整備されれば、非常に便利になるはずだ」ともコメントしています。
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ちなみにこのインホイールモーターは、これ単体でシステムの多くが完結するので「どんな車体にでも」容易に取り付けが可能という特徴を持っていて、現代においてもいくつかの例が見られ、ヒョンデ「eコーナー」はさらにこれを発展させ、インホイールモーターにサスペンションまで組み込んだものですね。
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なお、フェルディナント・ポルシェがこのインホイールモーターを開発するきっかけとなったのは、ベーラ・エッガーにヤーコプ・ローナー社の製作した電気自動車が修理のために入庫したためで、これをきっかけにフェルディナント・ポルシェは電気自動車へと急速に関心を寄せ、ベーラ・エッガーにて5年務めた後にヤーコプ・ローナー社へと移っています。
そこで開発したのがガソリンエンジンを(エレクトリックモーターにプラスした)世界初のハイブリッドカーであり、これは世界中のイベントにて様々な記録を塗り替え、当時時速36マイルという世界最速記録をマークしたこともあるもよう(ポルシェが記録にこだわるのは当初からの傾向であったということもわかる)。
ただし当時から電気自動車には「航続距離」と「重量」という問題がつきまとい、1906年にはアウストロ・ダイムラーに移籍してガソリン車の開発を行うこととなり、ここでは28/30HP マヤ(1908年)を開発し、またしてもプリンツ・ハインリヒ・トライアル等いくつかのレースにおいて上位を独占するなど輝かしい業績を残しています。
その後フェルディナント・ポルシェはダイムラー・モトーレン、シュタイアを経て1931年に自身の会社「ポルシェ事務所」を設立しますが、様々な会社を渡り歩き、その結果として独立したのは「いずれの自身の能力を活かせなかったから」「いずれも自身の先進的な考え方を理解できなかったから」であり、しかしこれらがおごりや傲慢ではないことは後の功績が証明しているとおりですね。
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その後、ヒトラーとの親交がはじまる
フェルディナント・ポルシェが持っていたのは「小型で効率的なクルマを作ること」「自動車を普及させること」ですが、これは自身の会社を設立することになった動機にも現れています。
最初に周囲を見渡した時、自分が夢見てきた”小型で軽量、高効率なスポーツカーはどこにもなかった。だから自分で作ることにした(In the beginning, I looked around and could not find the car I'd been dreaming of: a small, lightweight sports car that uses energy efficiently. So I decided to build it myself.)”。
そして1933年にはヒトラーがついに首相へと就任することになり、ヒトラーが掲げたのが「ドイツ国民一人ひとりが自動車を所有できるようにする」ことで、それには価格が安く(当時990マルク以下とされた)、そして小型で効率性が高いことが必須だとされ(国民車=フォルクスワーゲンと呼ばれた)、しかしヒトラーはその夢を実現するためにドイツ中から優秀なエンジニアを集め、その中でもっともヒトラーの関心を惹いたのがフェルディナント・ポルシェの考えた案であり、これが後の「ビートル」となるわけですね(当時はkdfワーゲンと呼ばれた)。
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ただしその後は第二次世界大戦に突入してしまい、そこでフェルディナント・ポルシェはフォルクスワーゲン・タイプ87、シュビムワーゲン、キューベルワーゲン、エレファント・タンク・デストロイヤー、ティーガー戦車、V-1飛行爆弾などを設計することになりますが、ここでも「ハイブリッド戦車」を設計したことがあり、しかしこれは構造の複雑さ、故障の多さ、製造・維持コストの高さから見送られたということも。
参考までに、ポルシェに設計を依頼したものの、「あまりにコストが高くなったので実用化(もしくは市販)できなくなった」ものが多くあり、ポルシェ924もそのひとつだと言われています(フォルクスワーゲンが設計を依頼したが、コスト高で市販できず、これをポルシェが引き取って自社から発売した)。
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話を当時のポルシェに戻すと、その後ようやく終戦を迎え、その際にフェルディナント・ポルシェはアメリカに戦争犯罪人として捉えられ、しかし政治犯ではなかったために釈放さるものの、今度はフランスの刑務所に収監されるという不遇の時代を過ごすことになってしまいます。
なお、この際に息子のフェリー・ポルシェは、フェルディナント・ポルシェの保釈金を作るためにイタリアのチシタリアとレーシングカーの設計にかかわる契約を締結し、その契約金100万フランを保借金に充て、ここでようやくフェルディナント・ポルシェは自由のみを得ることができたわけですね(これが1947年のことなので、このときフェルディナント・ポルシェは72歳)。
そして釈放されたフェルディナント・ポルシェは1945年から製造を開始したフォルクスワーゲン、そして1948年に生産開始となったポルシェ356の量産風景を見届けた後、同年11月に死去することとなっていますが、何より楽しみにしていたのはフォルクスワーゲンの量産だったとされ、息子に連れられて工場を見に行き、そこから続々と出てくるビートルを見たときには涙を流したといい、若い頃からの積年の夢であった「効率的な小型車の量産」がようやく叶ったことに感無量となったのでしょうね。
ただ、上述のとおりポルシェの歴史は1931年からスタートしているものの、現在のポルシェは1948年の「356の量産開始」を自社の歴史の起点としており、それはおそらく「ナチスに協力したことがある」という過去に触れたくないからなのかもしれません。
もちろんフェルディナント・ポルシェは戦争に加担する意図はなく、しかしヒトラーを「ようやく現れた自身の理解者」だと感じ、そこで協力を惜しまなかった(そのかわりに開発資金を引き出すことに成功した)のかも。
ヤーコプ・ローナーを退職した理由が「ヤーコプ・ローナーの規模が小さく、十分な研究開発ができないから」、そしてアウストロ・ダイムラーでは「自身の(小型車のほうが効率が優れるという)理念に会社が共感しなかったから」、ダイムラー・モトーレンでも「経営陣が小型大衆車に興味を示さないから」であったといい、しかし「小型で効率の良いクルマを、ドイツ全国民に普及させる」という思想を持ち、開発資金を提供してくれるヒトラーがフェルディナント・ポルシェの目に救世主として映ったのは想像に難くないところです。
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参照:sugardesign