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ポルシェは「走る化石」、ニーヴァで有名な旧ソ連の自動車メーカー、ラーダにも技術を提供していた。その知られざる過去とは

ポルシェ

| ポルシェは意外な自動車メーカーに意外な技術を提供し、意外な成果をもたらしている |

そう考えると、ポルシェが自動車業界に対しもたらした功績は「非常に大きい」

さて、先に紹介した通り、ポルシェの起源は自動車メーカーではなく「設計事務所」としてであり、そのためポルシェはこれまでにも様々な(ポルシェ以外の)自動車メーカーとのコラボレーションを行い、また設計にも関与しています。

そして今回紹介するのが「冷戦の真っ只中にあった1980年代、ロシアの自動車メーカー、ラーダに協力した」という事実。

ちなみにポルシェはプーチン大統領専用車のためにV12エンジンを設計したとも言われていて、意外と「東側」とのつながりが強いのかもしれません。

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当時、ポルシェの財政状況は「最悪」の状況にあった

今日でこそポルシェは「経済的に潤っているプレミアムカーメーカー」だと考えられているものの、1970年代後半、ポルシェの財務状況ははるかに安定しておらず、実際に1996年に986(初代)ボクスターが登場するまで、ポルシェは景気の浮き沈みを繰り返しつつ、長期的な存続のために紆余曲折を乗り越えてきたという歴史を持っています。

ポルシェは1986年、こうやって911や928を作っていた。この生産効率の悪さ故にポルシェは経営危機に陥り、後にトヨタ出身者を招いて「カイゼン」を行うことに【動画】
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このような状況の中で1975年、当時ポルシェの会長であったエルンスト・フールマンと、当時ソ連の自動車産業大臣であったヴィクトル・ポリアコフとの会談が実現され、ポルシェラーダとのコラボレーションが「ポルシェは資金を注入され、ラーダはより高品質な車両を製造するために必要な専門知識を得る」という目的のもと実現することとなるわけですね。

それまでラーダは国内市場に限定しての販売にとどまり、しかしポルシェとの協業によって品質を高め、その結果として(当時の)ソ連国外でも販売できるクルマを生産したいと考えていて、しかしラーダが思い描いていた国際的な販売は実現せず、しかしそれでもポルシェとの協業は「一定の品質の向上やモータースポーツの世界への参加」という形でラーダに利益をもたらします。

まず、ポルシェの意見を取り入れた最初のラーダが2103ですが、これはソ連国内ではジグリとも呼ばれ、後に国際市場ではラーダ1500として知られるように。

この2103はもともと、ラーダとフィアットのコラボレーションから生まれたモデルで、フィアット124スペシャルがベースとなっています。

当時のラーダは、2103をより頑丈で、ソ連の厳しい気象条件に適したものにするために改良を施し、信頼性を高めるべくフィアット124をよりシンプルな構成へと変更し、124で使用されていたリアディスクブレーキはドラムブレーキへと換装され、ロシアの冬の過酷な気温によってバッテリーが頻繁に使用不能となることが予想されたため、バックアップ対策として(エンジン始動のための)エンジンクランクを追加する等の対策を採用しています。※ソ連では戦争時に「銃でさえ凍って動作しなかった」と言われるので、こういった「寒さの中での信頼性向上」が差優先課題なのかも

ポルシェが参入したとき、ラーダ2103は発売から3年が経過しており、ポルシェの指導のもと内外装に多くのアップグレードが施され、外観面では、クロームメッキのトリムがボディ同色のエレメントへ(ポルシェの構想では、ブラックアウトされたエレメントがオプションとして販売されることになっていた)、そしてグリル、ドアハンドル、ウィンドウ周りもボディカラーに変更され、ホイールカバーだけはオリジナルのクローム仕上げのままだったという記録が残ります。

つまりこの2103では「(ポルシェらしからぬ)主にビジュアル」面での変更のみに留まっていたということになりそうですが、ポルシェはもう1台のラーダ、「サマラ」の改良に関与しており、これについてはどの程度ポルシェが関わったのかについては明確ではないものの、こちらはポルシェらしく「主にパワートレーン」の改良に貢献されたと言われ、しかしポルシェのエンジニアの専門知識をもってしても、サマラを海外の顧客に受け入れられるようなクルマに仕上げるには十分ではなかったようですね。

ラーダはパリ・ダカールラリーで優れた成績を残したことがある

ただ、信じられないことにラーダ・サマラはモータースポーツの世界でも短いながらもキャリアを積んでおり、しかもそれはラリー界で最も過酷なイベントのひとつ、パリ・ダカール・ラリー。※ラーダは1980年から1988年にかけてニーヴァをパリ・ダカール・ラリーに参戦させていますが、ニーヴァはこの8年間で2度の総合2位を獲得するなど、かなりの好成績を収めている

パリ・ダカールに参戦したサマラは「サマラT3」と呼ばれ、ソ連国内で販売されていた普通のサマラとはメカニズム的にかなり異なり、このサマラT3の設計に影響を与えたのはポルシェ、そしてロシアの航空宇宙企業ツポレフ(こちらはサスペンションの設計に協力している)だと言われます。

このサマラT3はパリ・ダカールに2回出場し、1990年にクラス7位、1991年にクラス5位に入賞し、ステアリングホイールを握ったのは、ル・マンで6勝を挙げ、60年代から70年代にかけて13年間F1で活躍したことでも知られる伝説のレーサー、ジャッキー・イクス。※ジャッキー・イクスはパリ・ダカールに参戦していた最後の2年間、ニーヴァをドライブしたことがあるが、ジャッキー・イクスとラーダとのつながりにもポルシェが関与していたのかもしれない

残念なことにサマラはポルシェとラーダとの「最後の共同作業」となるのですが、ポルシェはその長い歴史の中で様々なの自動車メーカーにエンジニアリングに関するノウハウを提供しており、よく知られているのはRS2アバントやメルセデス・ベンツ500E、そしてハーレー・ダビッドソン「Vロッド」。

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ちょっと変わったところだとセアト・イビサがあり、これはポルシェのエンジニアがパワートレーンを設計したため、エンジンブロックには 「System Porsche 」のバッジ(これを表示する権利を得るためにセアトは費用を支払わなければならなかった)が取り付けられています。

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