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マセラティが経験してきた「情熱と苦難の110年」。その歴史における情熱、試練、そして再興の軌跡

マセラティ

マセラティの歴史は様々な変遷の上に成り立っている

序論:トライデントの肖像 - 情熱と苦難の110年

現在その「苦難」が大きくクローズアップされるマセラティ。

イタリアを代表する高級自動車ブランドではありますが、マセラティは単なるラグジュアリーカーメーカーとしてのみ語られるべき存在ではなく、その歴史は、創業期に培われた純粋なレースへの情熱、幾度となく訪れた経営危機、そしてその度に再生を遂げてきた不屈の精神によって彩られています。

ここでは、マセラティが歩んできた110年にわたる複雑な軌跡を、単なる年表の羅列ではなく、創業者の哲学、経営戦略の変遷、技術革新、そして現代における市場での挑戦という多角的な視点から考察し、「モータースポーツの血統とグランドツーリングの洗練」という、マセラティというブランドに内在する二つの側面が”いかにして形成され”現代に継承されているかを解明してみたいと思います。

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第1章:創業期の鼓動と黄金のレース時代(1914年~1957年)

1.1 黎明期:マセラティ兄弟とボローニャの熱気

マセラティの物語は1914年12月1日、イタリアのボローニャで幕を開けます。

この日、アルフィエーリ・マセラティによって「ソシエータ・アノニーマ・オフィチーネ・アルフィエーリ・マセラティ」という名の自動車工房が設立され、高性能なスパークプラグの開発やスポーツカーのチューンアップを専門とするファクトリーとしての活動を開始しています。

創業の際にはアルフィエーリの他に弟のエットーレとエルネストも参加し、彼らはドライバーやメカニックとしても卓越した才能を持っていたようですね。  

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マセラティというブランドの核をなすトライデントのエンブレムは、単なる意匠ではなく、これは、芸術家の道を選んだ5男のマリオ・マセラティによってデザインされ、兄弟の故郷であるボローニャのマッジョーレ広場に立つ、ローマ神話の海神ネプチューン像が持つ三叉の矛をモチーフにしたもの。

このエンブレムには、創業者の情熱と故郷への敬意が込められているだけでなく、創業に関わった3兄弟の結束を象徴する意味合いも持っているとされ、実際にマセラティは「3」という数字を非常に重要視しており、いくつかのモデルでは「フロントフェンダー上の2つのサイドギル」「3本スポークモチーフのホイール」といったところからも創業当初の熱意を感じ取ることが可能です。

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そして創業家がマセラティの経営から離れた後であっても、このシンボルが受け継がれているという事実は ”創業期の精神がいまもブランドの根幹をなしている” ことを雄弁に物語っているかのようですね。

1.2 黄金のレース時代と栄光の軌跡

マセラティ兄弟のモータースポーツへの情熱は、創業からわずか12年後の1926年、トライデントブランド初のオリジナルレーシングカー「Tipo 26」として結実することになり、このデビュー戦でのクラス優勝はマセラティの名を世界に轟かせるきっかけに 。

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Image:Maserati

その後もマセラティは数々のレーシングカーを開発し、モータースポーツの歴史にその名を刻んでゆきますが、特にF1における伝説的なマシン「250F」は、レーシング界の巨匠ファン・マヌエル・ファンジオのドライブによって世界選手権で輝かしい功績を収めた ことでも知られます。

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Image:Maserati

また、マセラティは当時男性が支配的だったモータースポーツの世界において、史上初の女性F1ドライバー、マリア・テレーザ・デ・フィリッピスを起用したことでもその革新性を歴史に刻むこととなりますが、こうしたモータースポーツでの挑戦と成功は、マセラティのブランドアイデンティティを確立する上で不可欠な要素であり、マセラティのクルマが「高級サルーンでありながらもスポーツカー並のスペックを誇る」という特異な魅力を持ち続けているのは、まさにこの創業期に形成されたレーシングのDNAが、その後の商業的な変遷を経てもなお、ブランドの根幹に流れているためである と考えられます。

1.3 転換点:レーシングからロードカーへ

輝かしい栄光を獲得する一方、経営の道のりは平坦ではなかったとされ、第一次世界大戦後からその経営が傾き始め、1929年に発生した世界大恐慌、そして1932年のアルフィエーリの死去が決定的となりマセラティ兄弟はその株式の一部を実業家のアドルフ・オルシへと売却。

アドルフ・オルシの経営参画により乗用車の製造販売が本格的に開始されることとなり、この決断はより広範な市場に向けた市販車メーカーとしての道を歩むための戦略的な一歩ではあったものの、「モータースポーツをブランドのコアにしたい」と考えるマセラティ兄弟の思想とは相いれず、1937年にはマセラティ兄弟が会社を去ることでその経営権はアドルフ・オルシへと完全に移ります。

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さらに1950年代に入ると、アドルフ・オルシは「モータースポーツのワークス活動を終了させる」という、ブランドにとっての大きな決断を行い、これがマセラティ創業以来の「もっとも大きな(そしてひとつめの)転換期」となるわけですね。

第2章:変革と試練の時代(1957年~1993年)

2.1 市販車メーカーへの転身と3500GTの成功

1950年代にモータースポーツのワークス活動を終了するという戦略的な決断を下したマセラティは、1957年に初の本格的な量産車「3500GT」を発表し、これが商業的に大きな成功を収めることに。

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Image:Maserati

このモデルは、レーシングカー「350S」のエンジンをベースに市販車向けにデチューンしたユニットを搭載しており、マセラティのレーシングDNAが市販車にも継承されていることを示す重要な事例となったものの、この3500GTの成功によって、皮肉なことに「マセラティがレース活動から完全に撤退し、高級スポーツカーメーカーとしての地位を確立する」という決定的な状況が生まれます。

ただ、この3500GTの成功にもかかわらずマセラティの経営基盤はなかなか安定せず、この時期からマセラティは「幾度となく親会社が変更される」という、経営の不安定な時代に突入してしまいます。

2.2 親会社の変遷とブランドの動揺

1968年、経営難に陥ったマセラティはフランスの自動車メーカーであるシトロエンの傘下に入るのですが、1970年代に世界を襲ったオイルショックにより、ハイパフォーマンスカー市場は壊滅的な打撃を受け、親会社のシトロエンもマセラティの経営から手を引かざるを得ない状況へ。  

これらのモデルは当初、商業的なヒットを記録してマセラティの再建に貢献したものの、この時期は製品のクオリティに問題を抱えていた時代でもあり、その結果、品質問題がブランドの評価に長期的な負の遺産として影響を及ぼしたこともまた事実。  

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この危機的な状況においてマセラティを救済したのが、同じモデナを拠点とする少量生産メーカー、デ・トマソ社の創業者アレッサンドロ・デ・トマソ。

彼は公的資金を後ろ盾にして1975年に瀕死の状態にあったマセラティの経営権を握り、従業員の雇用を守ったとされていますが、かくしてセラティは1976年にデ・トマソの傘下に入り 、再建への道を歩み始めます。  

2.3 デ・トマソ時代の功罪:ビトゥルボの光と影

デ・トマソ時代において、マセラティの主力モデルとなったのが「ビトゥルボ」とその派生モデル群。

このデ・トマソ時代の歴史は、マセラティの経営基盤の不安定さと製品品質との相関関係を明確に示しているとされ、優れた技術とデザインのポテンシャルを常に持ちながらも、安定した経営体制を欠いたがために製品の品質にばらつきが生じるという、イタリアの少量生産メーカーに共通する課題が浮き彫りになったと分析されています。

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Image:Maserati

この不安定な状況は、1993年にデ・トマソがマセラティをイタリア自動車界の巨人、フィアットに売却するという結末を招くこととなるのですが、フィアットへの売却については「業績不振」のみではなく、アレッサンドロ・デ・トマソが1993年に病に倒れ、デ・トマソグループ全体の活動継続が困難になったこともひとつの理由でもあるようですね。

デ・トマソはなぜフェラーリやランボルギーニのように成功できなかったのか?ボクは「アレハンドロ・デ・トマソがお金のためにクルマを作って売ったから」だと考える
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「品質」における半ば致命的といえる問題を抱えつつ、マセラティは経営の試練が続く中でも外部の著名なカロッツェリアとの協業を通じてブランドの美的アイデンティティを維持・進化させており、たとえば、60年代半ばにはデザイナーのジョルジェット・ジウジアーロと提携して「ギブリ」のような成功作を生み出したほか、デ・トマソ時代では「デ・トマソの既存モデルのシャシーにジウジアーロがデザインしたボディを載せる」という手法をもって新しい「クアトロポルテⅢ」をスピーディに開発するなど、そのデザインパートナーシップは経営が不安定な時期においても製品の魅力を保つための重要な戦略として機能しており、「品質面における評価を下げたものの、デザイン的評価はけして下がらなかった」のもマセラティの特筆すべき点なのかもしれません。

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Image:Maserati

「世界初のツインターボ搭載量産車」、マセラティ・ビトゥルボのレストモッド登場。シャマルの要素を併せ持ち、33台のみが約1億円にて生産予定
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第3章:フェラーリとの共生とブランド再構築(1993年~2005年)

3.1 再起のシナリオ:フィアット傘下、そしてフェラーリ管轄下へ

1993年にフィアットの傘下に入ったマセラティは、ブランド再建における重要な局面を迎えますが、ここでフィアットは1997年に、マセラティの経営をグループ内の最高級ブランドであるフェラーリの管轄下に移管するという大胆な戦略を実行。

この移管の背景には、デ・トマソ時代に低下した品質とブランドイメージを、フェラーリの技術力と威信によって一新するという明確な意図があったと言われています。  

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3.2 「マラネッロの鼓動」:フェラーリ製エンジンの影響

この再建戦略の象徴となったのがフェラーリ製エンジンの採用で、1997年に登場した「3200GT」に続き、そのマイナーチェンジ版である「クーペ」と「スパイダー」から、フェラーリが設計・製造したV8自然吸気エンジン(型式名:ティーポ「F136」)が搭載されるように。

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Image:Maserati

このエンジンは、フェラーリ用とは異なるクロスプレーン式ではあるものの、その性能と信頼性はマセラティの製品価値を大きく高め、ブランドイメージの再構築に大きく貢献しています 。

さらにこの共同開発・製造体制を通じて材質や工作精度は大幅に改善され、マセラティは信頼性の高い高性能車ブランドとしての評価を再び獲得してゆくわけですね。  

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Image:Maserati

3.3 主要モデルの分析:MC12の戦略的意義

フェラーリとの協業は単なるエンジン供給にとどまらず、2004年に発表されたスーパーカー「MC12」は、当時グループ会社であったフェラーリの「エンツォ・フェラーリ」をベースに、マセラティのレース部門「マセラティ・コルセ」が開発を手がけたもので、このモデルは、徹底した軽量化と空力特性の追求がなされ、マセラティの本格的なモータースポーツ復帰を象徴する存在となっています。  

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Image:Maserati

MC12は、FIA GT選手権でのデビュー戦で2位と3位に入賞、次戦では初の勝利を飾るなど、レースの世界で大きな成功を収め、この勝利はマセラティが再び世界の頂点に返り咲くポテンシャルを持つことを世界に証明し、デ・トマソ時代に失われたレーシングDNAの復活を強く印象づけることになるのですが、この時代はマセラティが自社の弱点を補い、ブランドの威信を回復するために外部の強力なパートナーシップを戦略的に活用した成功事例として特筆されるべき時代です。

第4章:新生トライデント:プロダクトポートフォリオの拡大と技術革新

4.1 プロダクトラインの拡大と新市場の開拓

2005年に経営権が再びフィアットに移管された後もマセラティはブランドの再構築を継続し、この時代は伝統的な高級サルーンやGTカーの進化に加え、新たな市場セグメントへの挑戦が特徴として挙げられます。

1963年に誕生した4ドアセダン「クアトロポルテ」の5代目が登場し、このデザインを担当したのはピニンファリーナの奥山清行氏。

搭載されるエンジンはもちろんフェラーリ製で、日本市場でも高い人気を誇ることとなり、さらに6代目(2013年)ではアルミ素材を多用して軽量化と前後重量配分の最適化が図られるなど走行性能へのこだわりが追求されることに。

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Image:Maserati

そして、マセラティは2016年にブランド初のSUV「レヴァンテ」の生産を開始してSUV市場という新たなセグメントに参入していますが、この戦略的な判断は、ブランドの持続可能性を確保するための重要な一歩であったと捉えられています。

近年の販売台数を見ると、レヴァンテがその半数以上を占めるなどマセラティの売上を牽引する中核モデルとなっていることがわかり、これは過去の経営の不安定さから特定のニッチ市場に留まることが困難であったマセラティが市場のトレンドに対応し、事業としての成功を追求した現代的な試みで、そして成功した例だと考えてよいかと思います。  

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4.2 「ネットゥーノ」エンジンの誕生とMC20の意義

2020年になるとマセラティは、ブランドの未来を象徴する大きな技術革新を発表し、それが20年以上ぶりに100%自社開発した新型V6ツインターボエンジン「ネットゥーノ」。

このエンジンは、F1で採用されるプレチャンバー燃焼システムをロードカーで初めて採用し、リッターあたり210PSという驚異的な高出力を実現したことでも業界に衝撃を与えた存在です。 

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Image:Maserati

そしてこの「ネットゥーノ」を搭載したスーパーカー「MC20」は、単なるニューモデルではなく、「純粋なスピード」「純粋なラグジュアリー」「純粋な情熱」というマセラティのDNAの原点への回帰を象徴する「マニフェスト」として位置づけられていますが、マセラティ史上初のバタフライドアを採用したこのモデルは、美しいボディラインと徹底した空力性能を両立させた意欲作。

この自社開発エンジンは、過去にフェラーリに技術的に依存していた歴史から脱却し、未来に向けて自立的な道を歩むというマセラティの強い意志を物語っているかのようですね。  

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4.3 デザイン哲学の継承

マセラティは、モデル名に「風の名前」をつけるというユニークな伝統を継承し、たとえば、「ギブリ」はサハラ砂漠からの熱風、「レヴァンテ」は地中海の風に由来します。

MC20のオープントップ版が「MC20チェロ」(イタリア語で「空」)と名付けられたように、この哲学は現代にも受け継がれ、ブランドの歴史と自然の力を結びつける重要な要素となっていることもわかります。

マセラティが本格的にパーソナリゼーションに参入し「オフィチーネ・フオーリセリエ」の立ち上げ、そしてカスタムされたMC20チェロ ”レス・イズ・モア” を公開
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第5章:マセラティの現在地と未来戦略

5.1 厳しい市場の現実と財務状況の分析

現在、マセラティはフィアット・クライスラー・オートモービルズとPSAグループの合併によって誕生した巨大な自動車コングロマリット、ステランティスN.V.の傘下にあり、しかし、近年のマセラティの業績は冒頭で述べた通りに「厳しい状況」。

2024年上半期には純損失を計上し売上高は前年から55%減少、販売台数も2023年の26,600台から11,300台へと激減していますが、これは、マセラティの戦略モデルである「グレカーレ」が期待されたほどの成功を収めていないことも一因とされているもよう 。  

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この厳しい財務状況を受け、ステランティスがマセラティの売却を検討しているという報道もなされ、しかしこれに対し、ステランティスのCEOは「利益が出ないブランドは閉鎖する」と警告しつつも、マセラティの売却は否定し、ブランドには「少なくとも10年間」の猶予が与えられていると報じられています。

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マセラティの販売が半減、巨額赤字の形状で身売りの危機。親会社の役員が「マセラティにとって、最適な居場所はどこなのかを検討しなければなりません」とコメント

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5.2 電動化への舵:フォルゴーレ戦略

このような厳しい状況を打開するため、マセラティは「フォルゴーレ(Folgore)」と呼ばれる野心的な電動化戦略を推進しており、この戦略では、当初の2030年目標を前倒しし、2028年までに全ラインナップを完全EV化することを目指すもの。

すでに、グランツーリズモ、グレカーレ、MC20といった主要モデルに対して電動モデルである「フォルゴーレ」バージョンが追加されることが発表されていますが、現時点ではこちらも「予期したほど前進せず」、MC20については「フォルゴーレの追加を見送る」というコメントも出されているという状況です。  

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2022年は「全モデルに電動板”フォルゴーレ”を用意する」と明言したマセラティ。今回は「誰も欲しがらないため」MC20フォルゴーレの発売を中止すると正式に認める

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なお、この電動化戦略は、マセラティが「ネットゥーノ」エンジンで内燃機関の頂点を追求した直後に発表されたもので、「新設計のガソリンエンジンを投入する一方、内燃機関からの完全な移行を加速させる」という二律背反を内包しており、これはマセラティの「純粋な情熱」を追求する独自性と、親会社が求める厳しい財務目標を達成するという現実との間にて、マセラティが大きな葛藤を抱えていることを示唆している事実なのかもしれません。

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結論:逆境の先に描く青写真

マセラティの歴史は、情熱的な創業期、輝かしいレースでの成功、度重なる経営危機、そして親会社による再建というサイクルの繰り返し。

常に逆境に立ち向かいながら、その核となるDNA(情熱、パフォーマンス、エレガンス)を維持しようと奮闘してきたのがマセラティの歴史であり、特に、デ・トマソ時代からフェラーリ時代への移行は、品質問題に苦しむブランドが、外部の技術力とブランド力を活用して再生を遂げた成功事例として高く評価して良いかと思います。

その一方、現在マセラティは再び歴史的な転換期に直面しており、自社開発エンジン「ネットゥーノ」で技術的な自立性を確立する傍ら、市場の厳しい現実に直面し、巨大グループ内での存在意義を問われているというのが「マセラティの今」。

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この課題に対する答えのひとつが電動化戦略「フォルゴーレ」ではあったのですが、このフォルゴーレについても上述のとおり「トーンが低くなり」、その代わりに内燃機関の追求が検討されているという話も上がっているという状況でもあるものの、しかし現時点では「正式な修正計画」が発表されていないために今後のマセラティの状況は不透明。

しかしマセラティの未来は、単に”未来を見据えた”EVを投入することではなく、創業期から続く「マセラティならではのドライビング体験」を電動化時代にいかに再定義し、ブランドの歴史的価値と結びつけるかにかかっているといっても過言ではなく、伝統に固執するだけでなく、新しい時代のニーズに合わせた革新的な価値を創造できるかどうかが、マセラティが再び黄金時代を築けるかどうかの分水嶺となりそうです。

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参考資料:マセラティ年表

出来事詳細
1914年12月1日創業アルフィエーリ・マセラティによりイタリアのボローニャに設立。当初はチューニングファクトリー 。  
1926年Tipo 26生産トライデントブランド初のオリジナルレーシングカーを生産。デビュー戦でクラス優勝 。  
1939年本社移転アドルフ・オルシによる買収後、本社をモデナへ移転 。  
1957年3500GT生産初の量産車「3500GT」が商業的成功を収める 。  
1968年シトロエン傘下経営難によりシトロエンの傘下へ 。  
1976年デ・トマソ傘下オイルショックとシトロエンの経営難後、アレッサンドロ・デ・トマソに救済され傘下へ 。  
1993年フィアット傘下デ・トマソからフィアットへ売却 。  
1997年フェラーリ管轄下フィアットグループ内においてフェラーリの管轄下へ 。  
2004年MC12発表レース復帰を目指したスーパーカー「MC12」を発表 。  翌年にはフェラーリ管轄下を離れ、再びフィアット管轄へ
2020年ネットゥーノ発表20年ぶりの自社開発エンジン「ネットゥーノ」を発表 。  
2021年ステランティス傘下フィアット・クライスラー・オートモービルズ(FCA)とPSAグループの合併により、ステランティス傘下のブランドとなる 。  
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参照:Maserati

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